Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑧

 2月26日  Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑧

細かい部分の仕上げとデカール工程に入りました。

なんだか、それっぽくなってきました。





Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑦

2月25日  Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑦

サフを吹いて塗装し直し、機体の組み上げ段階に入りました。

失敗箇所が多々ある上に、筋彫りもエアブラシも高校生以来、、全くうまくできませんでしたが、まあこんなもんでしょう。

趣向は人それぞれですが、私はどちらかというとあまり継ぎ目LINEが目立つのは好みではありません。今回は筋彫りが深すぎて、しっかりした凹ラインが目立つ感じになりましたが、これはこれで良しとします。

細かい部分を自作しつつ、仕上げに入っていこうと思います。

































Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑥

 2月23日 Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑥

おそらく、筋彫りが雑かつ深すぎなのが非常によくない、と思われる。基本ができてない!

それを上から誤魔化しても、、とはわかっているのですが、気になる箇所の修正も面倒(沢山ありすぎ)。

いったん、溝埋めを兼ねてサフを吹いてどうなるのか、実験をかねてやり直してみました。

エアブラシの使い方もいまさんなので、納得!とは程遠い塗装の状態、、、ですが、まあ少し誤魔化しというか、リカバーというか、そんな手応えは感じたような気がします。

少しずつ、工夫しながら完成に向け作業を進めていきます。






Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑤

2月19日 Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)⑤

今日はずーっと雨だったので、エアブラシ塗装はできません。
細かいパーツの塗装とエアブラシのスタンドを自作してみました。
スタンドは、100均でなんとなく選んでみましたが、カッコはともかく、作業中にブラシをいったん置いておくことはできそうな感じ。


Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)④

 2月18日 Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)④

エアブラシを使って塗装開始!

使い方がまだよくわかっていないので、いまいち上手に使うことができませんが、これも練習あるのみ、です。

コンプレッサーまで手が届かないので、エア缶利用です。

エア缶側のエア圧調整、ブラシ側の塗料の量調整の違いで塗装具合が全く違ってくる上に、塗料の薄め具合によって色の乗り具合が違ってきます。

なかなか難しい。

エアブラシを置くためのスタンドも必要ですね。

雨が降ってきたので、作業途中ですが、ベランダに散らかした道具、塗料、模型パーツを撤収します。続きはいつになるか、、、

作業環境をもう少し整える必要あり。













日栄軒(東神奈川駅)

2月10日 日栄軒(東神奈川駅)

東神奈川駅の上り線ホームにある立ち食いそば屋さん。高校生の頃、学校帰りにときどき食べたりしていましたが、それから40年弱の時を経て再び。

駅そばの王道、日栄軒!












どさん子(八幡浜市)

 2月8日 どさん子(八幡浜市)

かつては、全国に展開していたどさん子ラーメン、八幡浜市にありました。

味噌ラーメンと焼飯でお腹いっぱい!









Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)③

2月4日 Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)③ 

キャノピーの着色など、地味な作業が続きます。
筋彫り部分、塗装前に確認を兼ねて先に墨入れしてみましたが、いまいち。
出来の悪い筋彫りが余計に目立つ感じでよろしくない。
サーフェイサーを吹いてからにしたほうが良かったかもしれません。あるいは、筋彫り部分を中心に、下地色として黒で塗装した上に機体色を載せていく方が、良い感じになるかもしれません。
試行錯誤が続きます。







Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)②

1月21日 Hasegawa S-3Aバイキング(1/72)②

筋彫りはむずかしい。精度悪し。
曲がったり、ズレたり、二重になったりしながら、一応、筋彫り終了ということにしました。
その後は、地味に下処理を進めていきます。





東遊園地

1月17日 東遊園地(三宮)

28年前のこの日は、朝残業のため、家を始発で出て会社に行った日。
でがけに関西の方で大きな地震があった、というようなニュースが流れていたか、、ぐらいであった。
当時、本社勤めだった東京の職場で仕事をしていると、朝の7時半頃、職場の後輩から電話があり、今日は休みをとらせてもらい、急ぎ実家に帰りたい、との連絡であった。どうやら家が長田区で、連絡がつかないらしい。
この頃は、大きな地震があり、被害が出ていることは分かっていたが、まだどれくらいの被害なのか、についてはよくわかっていなかった。
新幹線は大阪まで走っている、とのことだったので、休暇取得することは伝えるから、動いているうちにすぐに向かった方がいい、とアドバイスして電話を切った。

この日、被害の全貌がわかってきたのはだいぶ後であった。
その日の夕方か、夜だったか、後輩から、大阪から先の交通手段が全て止まっていたが、どうにか実家にたどりついたとの連絡があった。
自宅は全壊、しかし、奇跡的にコタツと床の隙間の空間が、ご両親の命を守ってくれた、と報告してくれた。

そんな一日であった。

祖父が亡くなり、少しづつ動き始めた交通機関で西宮に向かったのもその年、あるいは翌年だったか、、

まだ環境アセス関係の仕事を主にしていた頃、なんとなく心がざわついていたのを覚えています。